柳宗悦が愛した小鹿田焼-名工・坂本親子の物語

 | 

この世に柳宗悦のような人がいなければ、もっと多くの陶器が歴史の闇に消えていたかも知れない…。

日本の重要無形文化財と言えば、瀬戸黒や備前焼などがよく知られていますが、日本にはまだまだ中国でほとんど知られていない優れた文化財が数多く存在します。九州は大分県日田市の山奥にひっそりと伝わる「小鹿田焼」もその一つです。

 

「小鹿田焼」は、福岡県の有名な焼物「小石原焼」の分流として江戸時代に創設されて以降、現地で調達した原材料や工具を用いて、独自の芸術的な陶器を焼き上げてきました。そんな「小鹿田焼」最大の特徴は、その技術が一子相伝の技としてその子孫にのみ代々受け継がれてきた点です。「小鹿田焼」は誰にも知られず、300年の長きに渡り、天領・日田の地でひっそりと唐臼(からうす)の音を響かせてきたのです。

そんな「小鹿田焼」が世に知られる契機となったのは、1931年、民芸運動家の柳宗悦氏がこの地を訪れたことでした。氏が小鹿田焼について発表した「日田の皿山」は陶芸界に驚きをもって迎えられ、小鹿田焼の名は一気に広まりました。更に、戦後イギリスの陶芸家、バーナード・リーチ氏がこの地を訪れたことにより、小鹿田焼の名は世界に伝わることとなりました。

 

「柳宗悦氏は久留米市の骨董品店で小鹿田焼に出会い、ひとり山を越えてこの集落を訪れたのです。まだ道路も舗装されておらず、砂利道一本だった時代ですよ。もちろんタクシーなんてものもありません。しかしそのことが、小鹿田焼の重要なターニングポイントになったのです。氏がここを訪れなければ、ここは無人の集落と化していたでしょう」小鹿田焼保存会会長を務める坂本工氏はそう語っています。

 

坂本工氏の後継者である息子の坂本創氏も、同じ思いを抱いています。「これほど封建的な山村が残っていることに、柳宗悦氏も驚かれたことでしょう。しかし、柳宗悦氏のような方がおられなければ、小鹿田焼だけでなく、多くの隠れた陶芸の里が歴史の中に埋もれていたと思います」

人里離れた陶器の里が生き残っていくのは、至難の業です。かつて小鹿田焼に携わる人々は、農業を営みながら、副業として陶器作りに励んでいたのです。現在陶器作りに専念できるようになったのは、柳宗悦氏が小鹿田焼を世に知らしめた後、坂本工氏の世代に入ってからのことでした。

 

大分県は日田市の北部に位置する源栄町皿山地区、いわゆる「小鹿田焼の村」は、周囲を山々に囲まれた風光明媚な集落です。町のあちこちに清流が流れ、そこかしこで「唐臼(からうす)」の土を打つ音が響き渡ります。小鹿田焼が国の重要無形文化財に指定されたのは、そしてこの地が国の重要文化的景観に選定されたのはつい最近、2008年の事でした。

この、日本の原風景の一つとも言える風景には、多くの人が魅了されます。しかしそれは、旅人としてここを訪れる者のみです。ここでの実際の暮らしには、想像を超える艱難辛苦があると言います。

「ここは吹雪こそありませんが、雪が積もると陸の孤島と化してしまうのです。4WD車があるので一応何とかなりますが、真冬の数か月間は全く動けない時期が続きます。…少し前まで、(農業や林業の被害を抑えるために)鹿を撃つハンターが50人ほどいたんです。自然が豊かな場所なのに、誤射が恐くて山に入れなかった(笑)。そんな彼らもいなくなり、今や人よりも鹿の数が増えているありさまです。農業や林業を営む人々にとって、大きな頭痛の種になってるんですよ」

特に都会に住む人々は、「質素で優雅な田舎暮らし」という甘いフレーズに憧れがちですが、田舎ならではの労苦を直視もせずに、簡単にその言葉を信じてはなりません。しかし、そんな厳しい環境が、そして皿山地区の素朴な生活が、小鹿田焼という素晴らしい芸術を育て上げたのです。

小鹿田焼は地元の厳選された土を唐臼で1ヶ月かけて練り上げ、朝鮮半島伝来の窯を焼き上げて完成させます。小鹿田焼の原材料は、すべて現地で調達するのです。釉薬もその地で採れた草木、炭、長石を用いて作られた、天然100%の地元産です。

「私は高校を卒業した後デザイナー学校で一年間学び、小倉に戻って陶器づくりを始めました。小鹿田焼は長男に引き継がれるのが伝統なのですが、人里離れた山の中に留まりたくないと出ていく長男もたくさんいて、そういう場合は次男や三男が引き継ぐことになっているのです。私の場合は姉と妹しかいませんでしたから、他に道は無かったんですけれどね(笑)」坂本工氏はそう言って、「正直、あまり陶器はすきじゃないだろう」と、息子の坂本創氏へ問いかけました。

「確かに時々嫌になることもあります(笑)。だけど陶器を作り続けることで、様々な人との出会いがあるんですよ。有名な方がここを訪れて陶器を楽しまれる、それが私たちの喜びとして少しずつ蓄積されていくのです。それが陶器作りに打ち込むモチベーションになっています」創氏はそう答えていました。

 

小鹿田焼は、全て地元で採れる原材料を利用して作られます。陶土を「唐臼(からうす)」で挽かれた良質な粘土を登り窯で焼き、釉薬を打ち掛け、流し掛けなどで彩を装うのです。中国・宋代の陶器を彷彿とさせる素晴らしい小鹿田焼は、このようにして完成されます。

「ある伝統文化が受け継がれていくのは、その文化的価値が認められているからだと思います」子供の頃から陶器に親しんできた創氏は、高校を卒業後2年間鳥取県で過ごし、2010年から父親の窯元で陶器作りを始めました。創氏は、小鹿田焼の伝統を受け継ぎつつも、その枠を超えて小鹿田焼の調理器具製作などに挑戦しています。彼の作品は、その価値が認められ、D&DEPARTMENTなどの有名店でも取り扱われるようになりました。

「小鹿田焼についてPPTで2時間プレゼンテーションを行ったこともありました。小鹿田焼は無形文化で詳細な文献が無く、全てが手探りでした。現代という時代にあっては、積極的に情報を発信していかなければなりません。皆さまのおかけで、インスタグラムは好評を博しています。有名な方がこの山間の村を訪れることも増えました」

2016年の熊本大地震、そして2017年に発生した九州北部豪雨災害は、小鹿田焼に壊滅的な被害をもたらしました。陶土が採れず、また窯も破損し、何万人もの人で賑わう「小鹿野焼陶芸祭」も開催を見送らざるを得なくなる事態となっています。陶芸祭は2018年に再開されましたが、小鹿野地区の窯元の一つが廃業の危機に瀕しているそうです。

小鹿野地区にある10件の窯元のうち、4件には後継者がいません。多くの人が小鹿野地区を出ていき、20代の若者はわずか二人しかいないのです。厳しい状況は続いていますが、坂本工氏、坂本創氏ともに、ずっと笑顔で話をしていました。陶器作りには特別な苦労と喜びが存在します。柳宗悦が愛した小鹿田焼には、この土地で暮らす人々の生活が凝縮されているのです。